chimaera's garage

chimaera's garage MAZDA Demio

DY5W history

2002年8月新型デミオ発表
2003年3月マイナーチェンジ
など

2003年11月マイナーチェンジ
など

2004年4月マイナーチェンジ
など
2004年5月時点

Demio history

マツダデミオには二つの血脈が存在する。その一方は、初代フォードフェスティバにまで遡ることができる。当時、日本フォードがオートラマ店としてマツダのバッジエンジニアリング車を販売していた。そのオートラマ店専用モデルとして、1986年に投入されたのが初代フェスティバである。ややブリスター気味のフェンダーが与えられたものの、全体としてはオーソドックスなハッチバックスタイルでシンプルなコンパクトカーであった。搭載された新開発のエンジンも、絶対的なパワーよりも使いやすさを狙った実用志向のものである。しかし、その実用性の高さ故に人気を博した。また、キャンバストップという大きな特徴点も持っていた。

この後、日本はバブル経済を迎えていく。その混乱の中でマツダは販売チャンネルの拡大政策をとり、その拡大した販路に流すモデル数を揃えることに躍起になっていった。新たに設立したオートザム系列用新型車にフェスティバのプラットフォームも流用され、レビューとなった。バブル時に特有のファニーなデザインでありながら、車高を高くすることで室内空間を確保することが試みられていた。フェスティバの血脈を示すためか、キャンバストップも用意されていた。1993年には、7年の長きにわたって生産されていたフェスティバ自身の後継モデルが登場。このモデルは同じオートラマ系列で販売されていたレーザー(ファミリアの兄弟車)のようなルックスが与えられた。このルックスのためか、初代が持っていたシンプルながらも優れたスタイリングは失われた。それとともに販売も低迷。バブルの崩壊もあり、マツダ自身が苦況に陥っていくことになる。

バブルのツケはマツダに容赦なく襲いかかっていた。新たな新型車を作る余力はない。そんな中、レビューのプラットフォームから産み出されたのが初代デミオである。シンプルかつ実用的なデザインしか持たないこのクルマは、予想を超えるヒット作となった。しかしこの年の5月、フォードの所有株式比率が33.4%に引き上げられ既にフォード傘下のマツダとなっていた。

しかし、フォード傘下に入ることでフィエスタという新たな血脈を得ることになる。1976年に初代が登場したフィエスタは、ヨーロッパでVWポロやオペルヴィータなどと競合しているベストセラーモデルである。12年にわたって生産された3代目フィエスタの派生モデルとしては、日本にも導入されたkaがある。Kaは決して速くはないが操る楽しさを持ったコンパクトカーであった。

初代デミオはヒットモデルであったが、そのプラットフォームは古くささを隠せなくなっていた。だが、このクラスのプラットフォームを新たに作ることは、マツダには許されなかった。選択肢はただ一つ、5代目フィエスタに用いられるプラットフォームを用いることである。ヨーロッパフォードのプラットフォームをベースに、独自のチューニングとパワープラントを与えたモデルが新型デミオなのだ。